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過度な食事制限に傾倒して味わった絶望 悔しさを経て知った「食べて体を作る」大切さ――競歩・岡田久美子さん

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過度な食事制限に傾倒して味わった絶望 悔しさを経て知った「食べて体を作る」大切さ――競歩・岡田久美子さん

著者:長島 恭子(W-ANS ACADEMY編集部)

2026.03.28

体重管理

食事

学生時代に経験した過度な食事制限や体の変化の苦悩を語る岡田久美子さん【写真:松橋晶子】
学生時代に経験した過度な食事制限や体の変化の苦悩を語る岡田久美子さん【写真:松橋晶子】

競歩・岡田久美子さんインタビュー前編

 競歩で五輪3大会に連続出場した経歴を持つ岡田久美子さん。現役時代は日本選手権女子20キロ競歩7度優勝、2018年アジア大会女子20キロ競歩3位、世界選手権6大会連続代表入りなどの実績を持ち、警告3回で失格となる競歩において一度も失格することなく現役を退いたことでも知られています。学生時代は短期的な成績を追い求めるあまり、過度な食事制限と減量に苦しんだ過去も。当時抱えていた不安や心配、そしてその考え方から抜け出せた理由について伺いました。(取材・文=長島 恭子)

 ◇ ◇ ◇

――岡田さんは競歩を始めた高校時代、極端な食事制限をしてしまったそうですね。

「はい。高校生が出場するレースは長くても1万メートル。『体重を落とせば速く歩けて、手っ取り早くタイムを短くできる』と考えてしまいました。実際、当時の高校記録を出したり、世界ジュニアの10キロ競歩で入賞したりと、結果も出ていました」

――だから余計、「食べないのが正解」と考えてしまったんですね。当時はどんな食生活を送っていたのでしょう?

「ご飯(お米)は食べていましたが、おかずはあまり食べなかったですね。もともと、母は普段から私の体のことを考えて、調理に油を使いすぎないようにしたり、たんぱく質やいろいろな栄養がしっかり摂れるよう、野菜や魚が中心の料理を出してくれたりしていました。ところが自分で自分を追い込み、さらに食べる量を減らしてしまった。例えば、母の作ってくれたお弁当も、おかずを何品かだけ食べて捨てていました。母の気持ちを考えると、残して帰るのは悪いなと思い、食べたふりをしていたんです。

 部活の仲間もみんな細かったし、体重ばかり気にして1日5回は体重計に乗っていました。私の身長は158センチですが、体重は一番やせていた時で38キロまで落ちてしまいました」

――38キロ……。そこまでやせてしまっても体調の変化はなかったのでしょうか。

「ありました。中3で始まった生理が止まってしまい、高校時代は一度もこなかった。でも、当時は生理がこないことをまったく気にしていませんでした。

 もちろん、体には良くないと頭では分かっていましたが、それよりも『結果を出したい』という気持ちが先走っていたんですね。親にはずっと心配されていたものの、婦人科に行くこともしなかった。女性として一番体が発達していく時期でしたし、今も健康体であることは幸いです」

――大学進学後はどうでしたか?

「大学生になると20キロレースを歩かなくてはいけません。さすがに『このまま減量を続けていては体がもたないのでは』と思いました。生理が止まっていることも良くないと感じていたこともあり、食べる量をもう少し増やそう、という気持ちになりました。

 また、環境が変わり、部活以外の友人と過ごす時間が増えたことも大きかったです。高校時代は強くなるために修行僧のような生活をしていましたが(笑)、大学生らしく、友人との時間を楽しむようになった。すると、体重も少しずつ増え、1年生の秋には自然と生理が再開しました」

大学進学後に体重が増加し、新たな壁に直面した当時の葛藤を明かす【写真:松橋晶子】
大学進学後に体重が増加し、新たな壁に直面した当時の葛藤を明かす【写真:松橋晶子】

――体重が増えたことに対し、不安や心配はありましたか。

「ありました。成長に伴う体の変化もあり、今度は止まらぬ勢いで、どんどん、どんどん体重が増えたからです。最終的には10キロ増えました。高校時代とは異なり、体重計ではなく体組成計で体の状態を見ていたので、増えたのは脂肪だけではなく、ちゃんと筋力もついてきていると理解はしていました。とはいえ、大学2年生ぐらいまでは、体重増によるギャップに苦しみました」

――競技に影響は出ましたか?

「急に体が重くなったので、体の感覚が変わりましたし、筋力の前に脂肪がついてしまったので、体が体重に耐えられなかった。高校時代にできていたスピード練習も全くこなせなくなり、スピードが出なくて悩みました。たびたび、『本当にこのままで大丈夫なのかな』『もう1回、高校時代の食生活に戻さないといけないのかな』という気持ちになってしまい、何回か食事量を制限しては体調を崩していました。

 一番ショックだったのは大学3年生になる直前の出来事です。2月の日本選手権と3月の全日本選手権の20キロレースに出場することが決まっていたのですが、2つとも就職先を決めるうえですごく大事なレースでした。ところが自分の弱さが出てしまい、『やっぱり体重を軽くしなきゃ』と食事制限を始めたんです。すると日本選手権では自己ベストを出し、2位になったんです」

大学時代の監督の言葉が体作りを後押し「何度も、何度も救われた」

焦らず体を作る大切さを教えてくれた、大学時代の監督とのエピソードを振り返る【写真:松橋晶子】
焦らず体を作る大切さを教えてくれた、大学時代の監督とのエピソードを振り返る【写真:松橋晶子】

――「やっぱりやせているのが正解だ」という気持ちになったんですね。

「はい。しかも、3月の全日本で結果を出せば、ユニバーシアード大会の代表も決まる、という状況になりました。『よし、3月もこのままの調子でいこう』と食事量を減らしたまま練習を継続。そうしたら、レースの前日、尋常ではない痛みが脚に走り、熱を持ってどんどん腫れてきたんです。

 ついには痛くて歩けない、靴も履けない状態になり、急きょ、病院で診察を受けました。診察の結果は、蜂窩織炎(ほうかしきえん)。細菌感染による炎症でした。結局、食事制限をしながらハードな練習やレースを続けた結果、免疫力が下がり、抵抗力を失ってしまったのが原因です。結局、大会に出場することはできず、病院から帰宅しました」

――岡田さんのなかで、その時、何が一番ショックでしたか。

「いつも通りゴールさえすればユニバーシアード大会に出場できたのに、それが叶わなかったこと。そして『体重を減らせばいい』と安易に考え、行動してしまった自分の情けなさです。『何でこんな大事な時にやってしまったんだろう』という絶望感が、3年生の間、ずっと残りました。

 恥ずかしいのですが、大学生にもなって私は『細かったし、速かったし、敵なしだった』という高校時代の栄光を引きずっていました。だから、生理がこないような状態は良くない、前に進まないといけないと分かってはいても、高校時代の体重に戻さないと勝てないのではないかという気持ちに、たびたび戻ってしまいました。でも、この悔しい経験を経て、やっと食べることの重要性を理解し、『しっかり食べて、競技に取り組む』という姿勢が身につきました」

――立教大学陸上部の監督も、入学当初から「しっかり食べて体を作る」大切さを、岡田さんに伝えていたそうですね。

「4年間、結果が出なくてもいいから、大人の体に成長させていこう。焦らずに、体をしっかり作ろう、と言われ続けました。監督の立場であれば、自分が指導する学生に代表になってほしい、優勝してほしいという気持ちが先行すると思います。でも、その監督は違いました。一方で入学当初から、私には世界で戦える力がある。社会人になってからは体と心と向き合い、プロとして頑張っていってほしい、とも言い続けてくれました」

――なかなか結果がついてこない時期だっただけに、余計、励みになるような、嬉しい言葉でしたか。

「はい。体重が増えることを受け入れられなかった私は、監督の言葉に何度も、何度も救われました。私は大学時代、『岡田は終わった』と言われ、傷ついたこともありました。目標だったロンドン五輪(2012年)の出場も叶わず、少し辛い時もあった。でも、監督がいたおかげで、『自分は間違っていない』と思えましたし、楽しく陸上を続けられたと思っています」

■岡田 久美子 / Kumiko Okada

 1991年10月17日生まれ、埼玉県出身。熊谷女子高入学後、競歩を始める。立教大を経て、2014年にビックカメラ入社。15年日本選手権の女子20キロで初優勝すると、翌16年のリオデジャネイロ大会で五輪初出場を果たした。22年、前年に結婚した夫・森岡紘一朗氏(12年ロンドン五輪競歩男子日本代表)がコーチを務める富士通に移籍。25年9月の世界選手権を最後に引退した。現役時代の主な成績は日本選手権女子20キロ競歩7度優勝、18年アジア大会女子20キロ競歩3位、世界選手権6大会連続代表入り(最高位は19年ドーハ大会の6位入賞)。五輪は20キロで16年リオデジャネイロ大会(16位)、21年東京大会(15位)、男女混合競歩リレーで24年パリ大会(8位)に出場。美しいフォームにこだわり、警告3回で失格となる競歩において一度も失格することなく現役を退いた。5000メートル、1万メートル、35キロ、10キロ競歩の日本記録保持者。

(W-ANS ACADEMY編集部・長島 恭子 / Kyoko Nagashima)

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